前回、引き寄せの法則に関する本をご紹介しました。
エイブラハムも奥平亜美衣さんも
まずは「良い気分でいることを選択しよう」と
提案していますが、
たまたま同じようなことを
桜井章一さんの新書でも目にしました。
違和感のあるものは外す
「ツイてるな」とか「運がいいな」と感じているときに、「ああ、気分が悪い」と思う人はこの世に一人としていないはずだ。どんな人でも例外なく、自分がラッキーな状況にあるなと感じているときは、気分がいいものだ。
その事実から運に関するシンプルで揺るぎない一つの法則が導かれる。それは「逆もまた真なり」で、「気分がいいと運がくる」というものだ。
昔の人はそのことをよく知っていたのだろう。「笑うかどには福来たる」ということわざは、まさにそれと同じことをいい表している。ニコニコといつも明るく朗らかな気持ちで過ごしている人には、必ずいいことが起こり、幸せになるのだ。
本能的な鋭い勘を持ち、運についての名言も多いことで
知られます。
この桜井さんとの古い縁があり、
やはり麻雀最強位のタイトルを持つ
実際的な意見を加えているのがこの新書でした。
桜井氏の本については、以前にも触れたことがあります。
『努力しない生き方』(集英社新書)で、
意外とシンプルなことが大事なんではないかと
感じたものです。
今回の本でもこんなくだりがありました。
勝負は複雑にすると負ける
ゲームや賭け事で初心者が大勝ちしたり、大金を稼いだりすることがある。いわゆるビギナーズラックと呼ばれるものだ。しかし、これは単にツイていたというレベルの話では実はない。
ビギナーズラックは起こるべくして起こったことで、決して偶然ではない。
つまり、ビギナーは難しい複雑な手が選択肢の中にないので、必然的にシンプルな手をもってくる。それが結果的に勝ちへとつながるのだ。
勝負には複雑にしたほうが負けるという普遍的な法則がある。「シンプル・イズ・ベスト」なのだ。
なぜシンプルなほうがいいのか。
それはシンプルな手にはムダがなく、速く動けるからだ。
ビギナーズラックをもたらすシンプルさは、「難しく考えない」ことからくる。すなわち、勝負を複雑にせずシンプルにするには、余計なことは考えず、感じたことを大事にすることだ。知識や情報といったものが増えると、どうしても考えが広がって選択肢がたくさん現れる。その分、迷いが生じ、決断に時間がかかることになる。
ものごとをシンプルにできる人と複雑にしてしまう人の違いはそこにある。
更に、一見つかみどころのなさそうな
「運」というものについても、勝負師の指摘は続きます。
ところで運というものに対して、多くの人はどこか不合理で理性でははかれないものというとらえ方をしていると思う。
だが、運は決して理性でつかめない不合理なものではない。たとえば、ある人に運がくるのは、そこに運がやってくる必然の道筋があるからだ。ただ、その道筋は誰にでもはっきりと見えるというものではない。
私は運は自ら呼び寄せるものではなく、「運がその人を選ぶ」と思っている。
普段からしかるべき準備をし、考え、行動していれば、おのずと運はやって来るものだからだ。同じ量のエネルギーを注いでも、間違った考え方のもとに正しくない行動をすれば、当然運はやってこない。
こうした日々の生きる姿勢におけるちょっとした差によって、運はやってきたり、こなかったりする。
──
運は決して不合理で理解しがたいものではない。日々の行動や平素の考え方、仕事や生活に対する姿勢……そうしたものが運という形をとって表れるだけのことなのだから。
運というのは極めて具体的で、かつシンプルな原理で動く。奇跡のように思えることでも、その例外ではない。そこをきっちり認識していれば、運に妙な幻想を抱いたりして惑わされることはないのだ。
そして「運」がやってくるような在り方について
さまざまな言及が興味深い。
“力み”がすべてを台なしにする
雀鬼流麻雀の真髄は、「力みをとって打つ」ことにある。いうのは簡単だが、実際、力みをとって柔らかく打つのは非常に難しいものだ。──(中略)
力を抜くことは、麻雀に限らず、スポーツでも仕事でも生き方でもすべてに通じる、とても大切なことだ。
力が入っているものは、一見強く頼もしく感じられるが、壊れやすい。スポーツを見ていると、そのことがよくわかると思う。緊張したり、勝ちを急ぐあまり力みの入った動きをする選手はどこかで必ず崩れたり、ミスをする。力みのないしなやかな柔らかさこそ、実はもっとも強いのである。
ここまで言えば、察しのいい人は欲と運の関係がどういうものか、わかると思う。
欲が強すぎると、往々にして人は欲そのものに囚われてしまう。欲に囚われた状態が続けば、強い力みが生じ、目標や願望の対象に辿りつく前に挫折や失敗を繰り返してうまくいかない確率が高くなる。
では欲をあまり持たないほうが願望や目標を達成しやすいかというと、それもまた微妙だ。なぜなら欲を抑えたほうがいい結果になると思うこと自体、一つの欲望のあり方だからだ。
仮に何か強い願望なり、高い目標なりを持ったなら、とりあえず頭の片隅にしまって、そんなことは忘れたかのように生きていくことだ。欲望を抱く対象を普段は意識しないことが、力みを少なくするコツなのだ。そして日々、やるべきことを我を忘れてやり続ければ、望んでいることがいつの間にか形となって姿を現すのである。
何か、このくだりはまた
引き寄せの法則にも通じるような感じですね(笑)
パターンができたら自ら壊せ
私が標榜している雀鬼流には、武道のような型といったものがない。何か特殊な麻雀の型を教えてもらえると思って道場にやってくる人の中には、学ぶべき型など何もないと知ると、いささか拍子抜けしている人もいる。
もっとも型はなくとも、1秒で牌を切るとか、第一打で字牌(ツーパイ)を切ることを禁じるとか、いくつかの決まりごとはある。これらの決まりごとは勝つことに囚われず、結果に至る過程においてきれいな麻雀を打つために設けた制約といってもいいだろう。そうやってきれいな麻雀を打つ練習を重ねることで、結果的に強い麻雀が打てるようになるのである。
この後、型の有効性と落とし穴について語られます。
型は固定観念となり、体や心を硬くする要因ともなる。そのことが変化についていく際のブレーキになるのだ。
この型の話は、何もスポーツに限るものではない。仕事でも生き方でも、このパターンにはまれば、自分の得意な手を発揮できるという型をみんな持っているはずだ。
だが、「型にはまれば強い」ということは、裏を返せば「その型で戦えなければ弱い」ということである。
常に周りの状況が変化していく中で、自分の型にはまるタイミングをじっと待っているだけでは、いつまでたっても本当の強さをものにすることはできない。
いうまでもなく、変化に対しては、自分の都合のよいときを待っていては、いざというときに間に合わない。あくまでも変化には柔らかく対応していくことが何よりも大切なのだ。
雀鬼流麻雀が型を持たないのは、「変化を敏感に感じ取り、瞬時に対応できる」感覚と動きを身につけるためである。
人は型をつくると、ついそこに安住してしまう。だが、築いた型にはこだわらないほうがいい。型を惜しげもなく捨てられるかどうかが、その人の伸びしろを決めるといっても過言ではないのだ。
引用するときりがないくらい
示唆に富んだ内容だと
私は感心するのですが、
こうした桜井氏の話ごとに
より実用的なコメントを
つけてくれている
藤田晋氏の話も
わかりやすいでしょう。
私自身はどちらかというと
感覚的な方なので、
桜井氏の話にそのまま共感する点が多く、
その引用だけになってしまいましたが
両者のコラボで一段と読みごたえもある、という点でも
オススメの一冊です。
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