不思議の庭のミランダ

心に響いた言葉と書物の備忘録

『喜びの真法』楽しめば宇宙はもっと輝くー金城光夫さん『わたしは王』からの三作目

 

 

ヒカルランドさんから出された

人気の琉球スピリット作家の金城光夫さんの三作目

 

喜びの真法(まほう)  楽しめば宇宙はもっと輝く

喜びの真法(まほう) 楽しめば宇宙はもっと輝く

 

 

ヒットとなった一作目が

 

わたしは王  自己中こそが宇宙ののぞみ

わたしは王 自己中こそが宇宙ののぞみ

 

 

二作目が

 

目の真力(まりょく) 目で見る想いこそが創造のしくみ

目の真力(まりょく) 目で見る想いこそが創造のしくみ

 

 

いずれも

読んでいただくとわかるのだけれど

言葉は端的で読みやすく、

しかし、感覚的でもあり

本を通してエネルギーが

伝わってくるような感じかも。

 

そして何より、私たちが

陥りやすい思考パターンの仕組みから

物事の捉え方の転換を促してくれる。

 

まず、「感情」にふりまわされてしまうのでしょうか?

という話から

 

それは、「ネガティヴな感情を「否定している」からです。

わたしたち人間は「否定している」もの……から、

逃れることができません。

なぜなら「否定」とは、「執着」を意味するからです。

 

そうです、「執着」とは実のところ、

なにかを「欲しがる」ことではなく……。

なにかを「否定」すること、

なにかを「拒否」することに値するのです。たとえば……。

 

「お金のない状況は、イヤ!」と「拒否」するのも、

「執着」のひとつといえるでしょう。そして、

「イヤ!」と「執着」を抱いたまま、

「お金もうけしたい」と願ってみても、結果は……。

「イヤ!」と「執着」したとおりの、

「お金のない状況」が押し寄せてきてしまうのです。   9

 

「拒否」しているもの、

「否定」しているもの、

「執着」しているもの。これらは、たとえ

「じぶん」が「のぞんでいなくても」影響をおよぼしつづけます。 

 

私たちには

深層心理で思い描いたことを引き寄せる性質

というか

能力があるという。

 

そうです、その「能力」をつかって、

わたしたち人間は「現実」をも、創造してゆけるのです。  

 

「じぶんらしい世界」と、

「じぶんらしくない世界」。どちらであっても「創造主」は、

「じぶん」に変わりないのです。また、

 

3次元の世界にあっては「ニガテな感情」への「対処法」が、

もてはやされています……が、

 

わたしがお伝えしたいのは、そういった

「ニガテな感情」の「対処法」ではなく、

「うれしくなる感情」のコントロール……および、アプローチ方法なのです。

 

 

苦手なのは

とりあえず放っておいても

嬉しい感情にフォーカスすることで

自然とはなれるといいます。

その嬉しい感情へのアプローチ法こそが

この本のタイトルでもある

「喜びの真法」になっていると。

 

 

 

 

私たちの現実は

実は幻であり、

それはいわばそれぞれの

胸のスクリーンに映し出しているものに

過ぎないともいいます。

 

 わたしたち人間は、どうしても「見えない世界」より、

「物理的」に「見える世界」のほうに重きをおいてしまいます。ですから、

「アタマ」では「心の投影」とわかっていても、

「物理的」な「世界」での「できごと」は

「物理的」に「解決」をしよう……としてしまいますよね。でも、それでは

 いつまでたっても「根本的な解決」にはいたりません。

 

 これはちょうど「映写機」と「スクリーン」の関係に、たとえることができます。

「映画館」へいったさい、当然ながら……わたしたちは、

「映写機」ではなく「スクリーン」のほうを観賞します。

「視界」にはいってくるのは、

「スクリーン」に「うつし出された映像」だからです……が

「映像」の「実体」は「スクリーン」にあるわけではなく、

「フィルムのなか」に存在しています。

 

「フィルム」という「実体」を「映写機」を介して、

「スクリーン」に「うつし出している」だけなのです。そして、

 

「映像の内容」が「イマイチ」だからといって、

「スクリーン」を「撤去した」ところで……。

「映像そのもの」を「さしかえる」ことはできません。

 

「現実」の「できごと」も、これとまったくおなじ「しくみ」なのです。

「現実」の「できごと」は「心」という「実体」が

「うつし出されている」にすぎません。ゆえに……まずは

「心のフィルム」を「さしかえ」なければ、

「現実」も「変わることはない」わけです。 

 

で、さしかえなければならない

 「心のフィルム」とは、何か。

 

 それはズバリ、「目」なのです!

 

 が……これは決して、

「心のなかに、目がある」という意味でも、

「目のなかに、心がある」という意味でもありません。

「目そのものが、心」と、わたしは言いたいのです。

「心の投影」すなわち

「じぶんが見たもの」を

「うつし出している」のが……「現実」なのです。

 

 

 

結論からいってしまうと……「影」を見ようが「光」を見ようが、

大差はありません(!)。いずれにせよ、

「スクリーンにうつし出された、幻」にすぎないからです。   

 

 とにかく、「映像そのもの」より……それを「見る」にあたっての

 わたしたちの「在りかた」のほうが大切なのです。

 

 

「わたしは愛である」と「思いだして」、「愛として在る」のか?

「わたしは、価値がない」と「さげすんで」「愛が不在」なまま……でいるのか? 

 

という感じで

つまりは、「喜び」を選ぶという

奇跡?の法が

順を追って語られていきます。

 

「喜び」とは「外側」にあるのではなく、

「喜べるか、喜べないか」という「じぶん」しだいの産物です。

 おなじものを「見て」も「喜べる人、喜べない」人にわかれます。

 それは、たんに「喜べるか、喜べないか」とテンションの問題ではなくて、

「喜べるところを、見る」のか?

「喜べないところを、見る」のか? という「ちがい」なのです。

 

要は、焦点を喜びに合わせるのか、

苦しみに合わせるのか

ということらしい。

これ、習慣になっているかもしれないし

確かに

自分次第ですよね。

 

「あ、また喜べないところを見てしまった」と「気がついた」なら、

「奇跡」はおこります。そこに「気がついた」なら、

「じゃ、こんどは喜べるところを見てみよう」と思うだけで、良いのです。

 

 

 わたしたち人間の「人生」とは、

「見たことを、経験していくこと」……でもあるといえます。

 

「いま、どこを見ているのか?」

「だれが、見ているのか?」

「ここに、なにを見ているのか?」

 

 これらはすべて、

「じぶんへの、魔法の問いかけ」となります。

「じぶん」は

「いま、ここ」に、

「しあわせを見ているのか?」

「不しあわせを見ているのか?」 

 

著者は

琉球の真髄ともいえる歌を挙げ

「浮世なだやしく渡いぶさあり真(まこと)ゆか他(ふか)に道やねさみ」。

意味は

「この世をおだやかに暮らしたければ、真の心で生きるほかに道はない」

 

 愛と調和である宇宙の法則でもあると。

そして勧めているのは

 

 あなた個人の「執着」を手放して

「宇宙のながれ」に身をゆだねては、

「神の目で、見る」ことです。

 

 言いかえれば、

「宇宙を信頼」して、さからわないこと。

「個人的な価値観や、好み」に執着してしまうと、

「生きづらい」と感じてしまうことが、おおいのです。

 

 それは、世のなかが「生きづらい」のではなく、

「宇宙のながれに、さからっている」から、

「生きづらい」と感じてしまうのです。

 

 

「宇宙のながれに、さからわない」こと。そして、

「神の目で、見ようとする」こと。

 おおきな、おおきな「宇宙のながれ」に、

 ただただ「身をゆだねる」のです。

 

「愛と調和」の「波紋」に溶けこむことで「宇宙と、ひとつ」になれるのです。

 

「喜び」が愛と調和なんですね。

 

繰り返し読んで、頭ではなく感覚で

感得したい一冊です。 

 

  

また、来月(ってもう来週 )に

新刊も出るようで これも是非読みたいですね。 

  

 

 

それぞれが自分自身の本質へと"目覚めて"いく時代です☆

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